我孫子駅構内の、立ち食いそば ”弥生軒”

常磐線の我孫子駅と天王台駅の構内にある 立食いそば ”弥生軒”の植崎和基社長にお話をお聞きしました。

弥生軒のモットーは ”安く、美味しく”で、「唐揚そば」は人気商品です。遠くから、この唐揚そばを食べに来る人も居ます。
弥生軒の創業は昭和3年4月18日で、我孫子駅構内での弁当販売からスタートしました。弁当のみの販売が戦後もしばらく続きましたが、当時の国鉄は複線化と電化を推進し、常磐線も複線電化されたので停車時間が短くなり、弁当の販売量は減少傾向にありました。一方、電化に伴い、我孫子より東京都内への通勤客や学生が増えて、駅構内での「立ち食い店」の売上が伸び、昭和50年頃には弁当は売れなくなり、その頃より「弁当の販売」より「立ち食い店」の売り上げが主となりました。
弥生軒では、麺、つゆ、てんぷら等すべて自家製です。「安く、美味しく」を維持するためには、製造してから出来るだけ早く召し上がって頂けるように、自社製に拘りを持っています。朝早くから夕方まで製造を続けています。しかし、短時間に多くのお客さんが集中すると製造が追いつかずに品切れになることも有るそうです。 「立ち食い店」を始めた当初は、弥生軒の特徴を出すために新商品を追加していましたが、今ではお客様の要望も分かり、メニューは比較的固定しています。
平成のはじめ頃に新商品として「唐揚げ」を始めました。この商品に人気が出て、今では弥生軒の看板商品です。首都圏での駅そば人気の上位に入っています。 唐揚そばの場合、唐揚げをもう1個追加して1つの丼に2個の唐揚とする要望もあるとのことです。
駅構内での営業のみですので、色々と気配りが必要とのことです。飲食店ですので当然ですが、衛生面については最重要課題と位置づけて重点的に管理しており、JRの非常に厳しい定期検査にも合格してきています。
営業時間は店によって多少異なりますが、通勤の始まる時間帯から成田線の終電までどれかの店が開いており、従業員は2交代制です。従業員が突然休むことも有り、従業員の配置に柔軟に対応する体制確保に工夫されているとのことでした。
駅構内での販売量は気候の影響を受けやすく、その日の需要予測を高い精度で予測することが経営的には重要です。その日に製造したものが余ってしまえば、翌日に持ち越さないでその日に廃却していますので、色々と検討しているとのことでした。しかし、予測が外れることも有るそうです。
また、お客様に喜んで気持ちよく召し上がって頂くためには、美味しいことの他に店員の接客態度も大きく影響します。店員の性格把握や店員教育にも配慮しているとのことでした。

弥生軒は「裸の大将こと山下清」が働いていたことでも有名です。当時のエピソードをお聞きしましたので紹介します。

山下清が弥生軒で働いていたのは昭和17年から約5年間です。当時は戦争が激化しつつあり、食糧難が始まっていました。行商の人から「弥生軒で働いていれば食うことには困らない」と聞いたのがキッカケです。弥生軒の初代社長は「来る人は拒まず」との考えで、山下清を住込みの従業員として雇ったとのことです。
当時の山下清は無名で、仕事に対しては非常に几帳面で・根気良く・正直だったとのことです。
2代目社長植崎晃氏は、当時は未だ若くて年齢も近いこともあり、山下清は晃氏に親しみを覚えていたとのことです。絵を描くたびに晃氏のところに持ってくるので、晃氏は褒めると喜んで次から次へと持ってきたそうです。しかし、それらの絵はすべてゴミ箱に直行したとのことで、後になって惜しいことをしたと言われていたそうです。
山下清は、弥生軒で働いていたときも、突然放浪の旅に出てしまうことが有ったようです。放浪を始める前には地図で距離を測ったりしていたとのことで、地図を見始めると周囲の人は「そろそろ居なくなるぞ」と言っていたそうです。半年ほどして戻ってくるのですが「ただいま」と言うだけです。半年ほど前に突然居なくなったのですから、戻ってきたら当然社長が怒るのですが、効き目は無かったようです。
当時の弁当の包装紙に山下清の絵を使っていました。また、弥生軒の事務所には現在も山下清の絵が飾ってありました。

植崎和基社長にいろいろお話をして頂きましたが、「当社の商品を愛して頂いているお客様に接することが喜びだ」と言われたのが印象的でした。地域の人に愛され、地域の人と共に発展してきた弥生軒の基本がここにあるのだと思われます。地域の活性化の一環として「我孫子のカッパ祭りの復活」に対して、弥生軒が中心的な役割を果たしており、今後も地域密着で更に発展・活躍されることを祈ってやみません。